現代では「縁起」という言葉は
・縁起が良い
・縁起を担ぐ
というように「物事の吉凶」に関する表現として扱われていますが
そもそも仏教用語であったこの言葉は「物事の因果関係や相互的な関係性」をあらすものでした。
私たち人間は様々な関係性を生きています。
・親としての私は子がいなければ成り立ちません。
・買い手がいなければものを売ることはできません。
・相手のいない喧嘩は存在し得ません。
私たちの身体は無数の細胞が集合して出来上がり、様々な臓器が相互に働きあって命を繋いでいます。
また、川の流れはその構成要素である水が絶えす移り変わることで現れます。
仏教ではこういった、「物事の重なり合いによる成り立ち」のことを「縁起」と呼びました。
では、なぜブッダはこの「縁起」という言葉を大切にしたのでしょうか。
それは、私たちが傲慢になってしまわないための戒めだったのかもしれません。
・自分が誰かを助ける立場にいる時、実は自分もその相手に支えられている
・誰かを非難している時、実はその人物に依存してしまっている
・自分の努力が実った時、実はその陰にたくさんのお陰様が存在している
完全に自立した存在などあり得ない、全ては支えあい、重なり合って成り立っている。そのことをブッダは伝えたかったのでないでしょうか。
物事が何もかもうまくいきすぎている時、はたまた逆に何をやってもうまくいかない時、一旦立ち止まってこの自分を取り巻く「縁起」について思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
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