自分とは何者なんだろう、、、
理想的な自分にならないといけない、、、
もっと個性的な存在にならなくては、、、
そういったふうに思い悩んだことはありませんか。
思春期に多いこれら「自分探し」の悩みは実は「ある思想」によって起こるものです。
それは、人の中には固定的な「自己」や「個性」というものが存在している、という思想です。
現代の日本社会ではこの思想が当たり前に信仰されているがゆえに、それが一つの「思想」であることにすらほとんどの人が気付きません。
「一貫した考えに貫かれた自分というものを持つことの大切さ」
「他人とは異なる個性を持つことの大切さ」
これらを当たり前のことと認識して現代人は育ちます。
しかし、現実には「自分は、時と場合により変化する」し、「個性的な考え方を持つことは難しい」です。
それゆえに、多くの人はこの自分を取り巻く問題に悩まされます。
しかし、仏教では「固定化された自己」など存在しないと考えます。
つまり「一貫性を持ったブレない自分や」、「他人と比べて光る個性」、なんてものを認めないのです。
「私」は常に変化します。すぐに気が変わるし、状況によって善人にも悪人にもなりうる
個性的なのは身体面だけで、誰でも、同じような情報に触れれば、同じようなことを考えます。
自分について悩んで苦しくなったら、ブッダが遺したこういった自分像の認識があることを考えてみてはいかがでしょうか。
自分は一貫していなくても構わない。個性なんて取るに足りない。
そう考えるからこそ、「私」は必要に応じてどんな存在にでも変化しうるのではないでしょうか。
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