仏教では死後、人間は阿弥陀仏の極楽浄土に生まれることで菩薩や仏、そして現世で深い関係にあった人々と「また逢うことができる」という考えがあります。
これを「倶会一処」(くえいっしょ)と言います。
現代人にとっては、このような考え方は非科学的で、現実離れしているように感じられるかもしれません。
しかし、私たちの人生には実際に「理屈や自然科学的な方法では決して解決がつかない問題」がいくつも存在します。
その一つが、自分や他人の「死」です。
例えば自分の「死」は自然科学的に考えれば、それはすべての終焉を意味します。
しかし、その「事実」を前提とする人生は人間にとってあまりにも過酷です。
一方で、宗教は、人生で直面する様々な理不尽に対し、俗社会とは異なる解釈を持ち込み、「逃げ道」を作り出す機能を持ちます。
・自分や大切な人、生き物の「死」の先には、また別の場所がある。
・私たちはいつか帰る場所に向かって今を生きている。
・つらい別れの後に、いつかまた逢うことができる。
そういった想いから始まる「生」は、きっと虚無を前提とする人生に比べ、ずっと生きやすいことでしょう。
苦しみ多き人生を、少しでも「楽に生きていくため」に死後の解釈の方便を「活用」する。
宗教的な考えを認めようとしない科学万能主義者よりもずっと、ブッダは功利的な考え方の持ち主だったのかもしれませんね。
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